『筥迫工房』のブログ 筥迫の作り方と材料の販売 筥迫!箱迫!箱セコ!ハコセコ!はこせこ! 管理人:Rom筥
本年度新規参入予定の講座「雅型裁縫用具入」ですが、教材予定の「籠」が仕入れられず、4月30日の講座は「中止」することになりました。
先の記事で「教材は確定したので、あとは資料が用意できるかどうか」と書きましたが、とりあえず籠だけ仕入れておこうかと思った矢先、仕入れ先からあっさりと「取り扱いを中止した」と言われてしまいました、、、そんな、、、
やっと開催できると思ったので本当に残念ですが、現在別のところで同じような籠を探してもらっている最中です。
8月までに見つかれば開催、という何ともあやふやな状況となってしまいました。申し訳ない、、、。
仕入は大変なのだ
筥迫工房のショップでそうですが、このような教材は突然「入荷不可!」もしくは「仕入先が閉店!」となるので、自分の仕事がどんなに忙しくても急遽代替え品を探し回らなければならない。
型を作ることより、教本を作ることより、何より大変なのが材料の調達で、常に戦々恐々としています。
袋物を作るための材料が揃っているからこそ、ここまで筥迫や袋物を作ってくれる人が増えたのであって、これらの材料がなくなってしまうと、せっかく積み上げたこの文化さえなくなってしまう、という不安を常に抱えています。
どこかに頼めば確実に手に入る、そこがダメなら同系の仕入先はすぐ見つかる、という時代ではなくなっているような気がします。
小売業も本当に厳しい状況ですから、売れないニッチな商材は切り捨てられ、また店自体続けることができない状況に陥る。
たぶんどの職種でも、材料や道具が手に入らなくなるということは増えてきていると思います。
気力のあるうちは、どんなに大変でも代替えを探す、作る、という気持ちにもなりますが、年をとってその気力がなくなれば、それがきっかけで仕事をやめてしまう会社や職人さんたちがいる。
筥迫工房のショップも、私がこの材料を調達する気力がなくなったらその時がお終いと思うので、どうぞ貼り込みの袋物を作りたい方は今のうちに関わっておいてください、、、ね(弱気)。
千代田籠
籠なんてどこにでも売っているし、受講者が近いサイズの籠を持ち寄って作ればいいじゃないの、と思われるかもしれませんが、中の仕切りが貼り込みなのであって、どんな大きさにでも対応できる型紙はそれこそ難しいのです。
この外見だけ作りたいのであれば別に私が教えなくても良いのであって、今回の萌えポイントは、あの針山じゃなきゃダメ、あの籠でなきゃダメ、あの大きさでなきゃダメ、あのフォルムじゃなきゃダメ、という私なりのこだわりがセットになっているものなので、参加予定だった方はすみませんが気長にお待ちください。
この型の原型は、昔、ウールのアンサンブルや浴衣など着たときに持っていた、上がもうちょっと長い巾着型の手提げ袋ですね。
袋物の本には籠がついていないものを、千代田袋、利休袋など、色々な言い方をしているようですが、『日本嚢物史』には「籠付きの手提げ袋」としか書いていない。
信玄袋の下が籠付きのものは籠信玄と呼ばれているので、今回の型を勝手に「千代田籠(ちよだかご)」といっています。
今時は、あのような形状の巾着を持って歩く女の子は少なくなりましたね。
去年、珍しく娘が「友達と浴衣が着たい!」と言ったので、お友達の分までこの手提げ袋と、浴衣、下駄などを用意し、かつて自分が和の気分にときめいたことを思い出しながら一人悦に入っていたのですが、現実は、
「こんなのより普通のトートバッグがいい〜」
「ビーサンの方が楽〜」
ジェネレーションギャップに撃沈しました。
確かに今時のバッグに慣れている世代には、こんな籠はただ使いにくいだけかもですね。
正直私もそう思うからこそ、あくまで提げて持つものではない裁縫用具入れに仕立ててみたわけですが。
信玄袋
このような袋は信玄袋に属します。
信玄袋といえば、日本において初めて使われるようになった手提げ袋です。
このような型は昔々からあると思われているかもしれませんが、信玄袋が大流行したのは明治の終わり頃という、けっこう最近の話なんですね。
火打袋や巾着は古代よりあったものですが、その使い方は何と言っても「提げ物」中心。
着物といえば「帯」の文化ですから、帯に紐を通し、根付のようなストッパーで挟んでいたわけです(市井の人々はただ結んでいたかもしれませんが)。
袋物のバイブル『日本嚢物史』によりますと、
我が国の人は古来手に提げる物を持つということは殆どなかったのであります。
明治初年ごろから此の風習を見るようになりましたので、沿革として述べる程の材料も少ないのでありますけれども、近来に至っては男女ともにこれが実際に必携用品となったので、その流行の変遷を記憶を辿って述べます。(日本嚢物史)
旧字体だらけなのでこれでもわかりやすく現代訳にしていますが、大正8年に発行された本に「書くほどの歴史もない」と言わしめるほど、明治前の日本人には「手提げ袋」の文化がなかったということです。
それが近来(あくまで大正8年)に至り、人々が信玄袋を常用するようになった。
角の挟ミゴキと称する緒〆を用いてこれに打紐を通し、その紐で提げるようにしたのでありました。これを信玄嚢と称えました。
これが明治初年に於ける手提物の最初と云うべき者であります。(日本嚢物史)
「角の挟ミゴキ」とは象牙の「コキ」のことです。
明治に入って怒涛のように押し寄せた西洋文化の影響もあり、やっと「手提げ」のようなものがちらほらと出始めますが、新しいものに敏感な若い人であっても、そこではまだ心動かされるほどの物ではなかったようです。
それほどまでに「手提げ袋」は日本人に馴染みがないものだったのでしょう。
鹿鳴館でしきりに舞踏会が催された折り、上流婦人間で西洋風手提袋として輸入の口金付手提袋が用いられたのが、明治30年に至って信玄袋として爆発的流行をみた。(日本袋物慨史)
当時の人も雑誌などで情報は得ていたと思うので、鹿鳴館などの現実の西洋文化(日本趣味とは違う華やかさ)を知って、やっと手提げ袋というものを実感したのかもしれません。
袋物業界は、信玄袋の全盛時代といわれた明治30年ごろをひとつの転機として発展していった。(日本袋物慨史)
それでも信玄袋は日本的な意匠を持つ袋物といえますが、いかにも西洋型のハンドバッグが大衆化されたのは、大正十二年の関東大震災以後とのことです。
ちなみに、信玄袋が実用本位の布を使っているのに比べ、千代田袋はコキを使わず、もうちょっと上品な布帛を使った婦人向けの袋といった感じです。
日本は不思議の国
厳密にいえば、手に荷物ぐらいは持ったかもしれないですが、手提げ専用の袋がなかった、ということです。
現代に生きる私たちにとっては驚愕すべき事実ですが、私にはもう一つこれと同じぐらい意外だったことがあります。
聖徳太子が生きていたような時代には「勾玉」などの装身具があったと思うのですが、それ以降は明治に入るまで、肌に直接つけるようなアクセサリーがなかったということ。
耳飾りや首飾りは原始的な発想のアクセサリーだと思うのですが、そういうものに日本人は興味を持たなかったのでしょうか。
江戸時代に黒船あたりでやってきた当時の西洋人たちも、ダイヤモンドのような貴石には目もくれず、形のいびつな茶碗を珍重する日本人にびっくりしたようです。
半貴石のようなものは袋物の「緒締め玉」にもあるので、硬度が低いので加工しやすかったというのもあるかもしれませんが。
髪型やら櫛などの装身具は盛りまくりなのに、ネックレスも指輪もピアスも存在しない。
私たちの先祖が暮らしていた不思議の国ニッポン。
袋物を通してかつての日本文化を知ると、現代日本がすっかり西洋化されていることを実感してしまいますが、それでも私たちがその遺伝子を受け継いでいると思うと、ちょっと誇らしく思えたりします。
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